午後店番プレミアムフライデー

2月月末金曜日、日本では「半ドン」が始まったらしい。

坊発楽は以前からなるべく働かない事を目標にしているので、昼から値上がり(15元)した床屋に行き、そのままスタジオ上階の銭湯へ行って洗髪がてらリラクゼーション。あっと言う間に夕方。夜のスタジオお客さん準備。

さて、全く関係ないが近頃人工知能(AI)の話題も増えて来てネットでも色々書いてあるが、どーも誤解と誇張が多いようなので自称「素人AI研究家(笑)」の村松茂が考える人工知能の行く末を書いてみたい。最近話題のAIは「ディープラーニング」による単なるビッグデータの活用に過ぎない。簡単に言うとパターンをたくさん覚えて、一番当てはまりそうな答えを出す機械。で、そのビッグデータはインターネットや各社に蓄積されたデータ。有象無象。人工知能で考えるとそれは脳の仕組みをかなり正確に模倣はしているんだろうけど「知能」ではない。人工知能とは自ら考えないといけない。そのためには「意識」とか「自我」が不可欠。そこまで行くと「それは無理」という論調がほとんどだけど、前野教授の『受動意識仮説』を取り入れると実現可能に思える。(この連載記事が面白い)『受動意識仮説』を実際にAIに当てはめると人工知能実現には「脳」だけでは無くて様々なセンサーを持った「身体」が必要だと分かる。で、その身体の各センサーで感じた感覚を点数で評価して評価の主体としての「私」を仮定して記憶させる。例えば顔をつねると触覚が大きく変形する。変形した大きさを「痛み」として大きければマイナス点、撫でられるとプラス点。それを「私が感じた事」として記憶させる。各センサーは同時に絶え間なく働いているので、本当はもっと複合的に、視覚で言えば赤い色を見て、触覚も異常(出血した状態)を感知して「私」が評価して記憶していく。その蓄積されたデータを使って無意識に「ディープラーニング」をして行動する(そしてまた記憶する)のが「意識」になると思う。そういうモデルがAIなんだけど、そのデータは各センサーの経験の蓄積なので、1年分のデータは1年掛からないと蓄積されない。今みたいに既存のデータ(ネット上のビッグデータ)を使うことは出来ないので、3歳のAIは人間でいう3歳児の知能しかないかもしれない。そこで、考えられるのは既存の記憶されたデータ(=生きた人間の記憶)を電脳化する計画(全くもって攻殻機動隊の世界ですが・・・)が次に来る人工知能の研究テーマ。もう話が長くなってきたので(笑)この辺で止めますが、何が言いたいかというと人間を超えるAIが生まれるよりも先に、人間自体が不老不死になる方が早いだろうと思うわけです。それは電脳化かも知れないし、大脳の新しい肉体への移植手術かもしれませんが。